パジャマでパンジャビ

闇鍋みたいなブログです。

Apostata1

紀元337年5月22日コンスタンティノープルからほど近いニコメディアで大帝コンスタンティヌスはひっそりと死にました。正帝となってからおよそ25年、広い帝国を駆け巡り、後世多大なる影響を及ぼすことになる男の死はあまりにもあっけなく、はかないものでした。

大帝の死はすぐさまブリタニアの寒村から隣国ペルシアまで広まりました。大帝の遺体がおさめられた棺は帝国の幹線道路を通りすぐさま帝都コンスタンティノープルまで運ばれました。また帝国に散らばっていた彼の肉親である副帝もその葬儀に参加すべく一途コンスタンティノープルを目指したのでした。

このとき副帝であったのは、大帝の実子であるコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス、コンスタンス、そして甥にあたるダルマティウス、ハンニバリアヌスの5人でした。大帝には他にもガルス、ユリアヌスという甥がいましたが、幼少であったため副帝には任命されていませんでした。

大帝の葬儀に際して実子のコンスタンティヌス2世、コンスタンスは出席を辞退しています。地理的にコンスタンティノープルまで戻るのが面倒だったと思われました。コンスタンティウス、ダルマティウス、ハンニバリアヌスそして多くの大帝の肉親、側近、宦官によって執り行われた葬儀は、重税に苦しむ農民たちをよそ眼に、華奢で壮麗なものでした。

葬儀の後通常はすぐに副帝の正帝化を元老院が決議します。しかし、この時はなぜか決議が思うように進みませんでした。いずれにしろ、蛮族の襲撃、ペルシアとの交戦など多くの問題を抱えていた帝国にとって、亡き大帝の遺志を受け継ぎ、5人の副帝たちが互いに歩みをそろえる必要がありました。

 

 

 

 

 

コンスタンティノープルの宮中で多くの大帝の肉親たちが一夜にして虐殺されたのは、大帝の死からおよそ1か月過ぎた時のことでした。虐殺されたのは副帝であったダルマティウス、ハンニバリアヌスをはじめとする多くの肉親、そしてコンスタンティヌス大帝の側近などおよそ50人にのぼりました。そして生き残ったのは当時幼少であったガルスとユリアヌス、そしてこの虐殺の首謀者であったコンスタンティウスでした。

数日後コンスタンティウスは声明を発表しました。声明はまずコンスタンティノープルの宮中でとても嘆かわしい事件が起きとても胸を痛めているということ、そしてこれからは死んだ彼らの遺志を継ぎ、大帝の実子であるコンスタンティヌス2世、コンスタンティウス、コンスタンスの3人が帝国をおさめる、というものでした。そしてその後元老院により3人の正帝化が決議されます。

 

一挙に肉親を失った二人の少年ガルスとユリアヌスは悲しむ暇もなく、コンスタンティノープルの司祭であったエウセビウスのもとに預けられました。ガルス12歳、ユリアヌス6歳の夏の出来事でした。