パジャマでパンジャビ

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鉄道唱歌をめぐる旅 関西・参宮・南海編1

僕が好きな歌に鉄道唱歌という歌があります。鉄道に乗りながら日本全国をめぐり、各地の名産や史跡を紹介するという歌なのですが、今回暇を持て余した僕は、鉄道唱歌に出てくる土地を巡ってみました。第一回目は、僕が1番好きな関西・参宮・南海編です。

まず歌は次のように始まります。

1.汽車をたよりに思ひ立つ

伊勢や大和の国めぐり
網島いでて関西の

線路を旅の始にて 

今の京橋駅の近くに網島駅という駅がありました。明治時代に存在した関西鉄道という会社の駅で1900年ごろまで多くの人が利用するターミナル駅でした。現在ではその面影はなくなって、大阪市立東高等学校になっています。

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2.造幣局の朝ざくら

桜の宮の夕すずみ

なごりを跡に見かへれば

城の天守も霞みゆく

 

桜ノ宮駅は現在でも存在する駅です。この駅の近くに日本の造幣局の本局があります。造幣局内にはたくさんの桜が植栽されており、毎年4月には一般公開されています。この桜の一般公開は明治時代から続くもののようです。

そして大阪のシンボルともいうべき大阪城もここからうっすらと見ることができました。

3.咲くや菜種の放出も

過ぎて徳庵住の道

窓より近き生駒山

手に取る如く聳えたり

 

京橋駅片町線に乗り換えます。日本の珍地名として有名な放出駅を通過します。今では都会にある平凡な駅ですが、かつては菜の花畑が広がっていたそうです。電車は徳庵駅住道駅を過ぎ四條畷に到着しました。なお途中にある鴻池新田駅は1912年にできた駅なので、鉄道唱歌には出てきません。

4.条畷に仰ぎみる

楠公の宮どころ
ながれも清き菊水の

旗風いまも香らせて
 
5.心の花も桜井の

父の遺訓を身にしめて
引きは返さぬ武士の

戦死のあとは此土地よ

 

楠公とは南北朝時代足利尊氏と戦った楠木正成(大楠公)の息子楠木正行のことです。楠木正成の死後南朝から期待されていた楠木正行てすが、若干23歳でこの四條畷の地でその最期を遂げてました(四條畷の戦い)。今では四條畷駅からすぐ近く、小楠公墓所があります。

 

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楠公の墓地はこじんまりと商店街の奥にありました。

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楠公墓所の前で発見したんですが、ここら辺の地名は楠公というらしいです。商店街にも「楠公商店」という名前のお店もありました。 

6.飯盛山をあとにして

星田すぐれば津田の里
倉治の桃の色ふかく

源氏の滝の音たかし

飯盛山とは生駒山地にある標高300mほどの山です。さっき言った四條畷の戦いの舞台となった山で山頂には楠木正行銅像が立っているそうです。

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四條畷駅から見た飯盛山は建物に隠れて全貌が見れませんでした。残念。

 

星田駅を過ぎて津田駅に到着しました。ここから源氏の滝までおよそ2kmほどです。源氏の滝という名前の由来は長くなるので書きませんが、ここに詳しく書かれています。

http://murata35.chicappa.jp/meisho/genjitaki/index.htm

 7.柞の森と歌によむ

祝園すぎて新木津の
左は京都右は奈良

奈良は帰りに残さまし
 
8.京都の道に名を得たる

駅は玉水宇治木
佐々木四郎の先陣に

知られし川もわたるなり

 

 列車は京都府に入り祝園駅を過ぎ木津駅に到着しました。ちょうど大阪方面から来ると左には京都、右には奈良があり、奈良線に乗り換えれば京都と奈良に行くことができます。玉水、宇治、木幡はいずれも奈良線にある駅です。

柞の森はははそのもり、と読み祝園神社の神苑のことのようです。祝園神社は古事記にも登場した由緒正しい神社です。

佐々木四郎とは平家物語源平盛衰記にもその名が出てくる平安末期、鎌倉初期に活躍した佐々木高綱という武将のことです。「知られし川」とは源義仲源義経が争った宇治川のことです(宇治川の戦い)。この宇治川の戦いで佐々木四郎はこの戦いで先陣を切って戦った誉ある武将と言われています。

9.共仁の都の跡と聞く

加茂を出づれば左には
木津川しろく流れたり

晒せる布の如くにて

 

聖武天皇の代に都として建設された恭仁京は現在の京都府加茂地区にあったとされます。結局都として完成はされなかった恭仁京ですが、今でも恭仁京跡という石碑が立っています。

10.川のあなたにながめゆく

笠置の山は元弘の
宮居の跡と聞くからに

ふるは涙か村雨か

笠置山後醍醐天皇が北条軍と戦った戦場です。北条軍の軍勢はおよそ七万五千、対する後醍醐天皇の勢力は三千。圧倒的劣勢の中でも後醍醐天皇勢力は、笠置山の地勢を巧みに利用し、ほぼ互角に戦いを展開します。

しかし戦いが続くことおよそ一か月、豪雨の幕府軍が放った火が燃え移り、ついに笠置山は落城し、後醍醐天皇は捕らえられてしまいます。その後後醍醐天皇隠岐に流罪となり、再び京に戻ることができたのは、楠木正成足利尊氏らにより鎌倉幕府が倒された後のことでした。

笠置山の標高はおよそ300m。ちょっとした運動がてら山を登り、山頂にある笠置寺を訪ねてみました。後醍醐天皇行在所があります。

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 その他かつてのお坊さんの修行道を体験することができます。けっこうおもしろかったのでおススメですね。駅から歩いていくと二時間ほどかかります。

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関西本線は京都と三重を結ぶ経路なので、この日は18きっぱー達で賑わっていました。

長くなったのでその2に続きます。